ラルフ・シューマッハ

ラルフ・シューマッハ
ドイツ・ケルンのチャリティーイベントにて(2016年11月)
基本情報
フルネーム Ralf Schumacher
略称表記 RSC
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身地 ドイツの旗 ノルトライン=ヴェストファーレン州フルト[1]
生年月日 (1975-06-30) 1975年6月30日(48歳)
F1での経歴
活動時期 1997-2007
所属チーム '97-'98 ジョーダン
'99-'04 ウィリアムズ
'05-'07 トヨタF1
出走回数 182
タイトル 0
優勝回数 6
表彰台(3位以内)回数 27
通算獲得ポイント 329
ポールポジション 6
ファステストラップ 8
初戦 1997年オーストラリアGP
初勝利 2001年サンマリノGP
最終勝利 2003年フランスGP
最終戦 2007年ブラジルGP
テンプレートを表示

ラルフ・シューマッハRalf Schumacher, 1975年6月30日 - )は、ドイツ出身の自動車レーサー。元F1ドライバーF1ワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハの実弟。

フォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンを獲得し、F1チーム「ジョーダン」「ウィリアムズ」「トヨタF1」などで活躍した。

プロフィール

F1参戦以前

兄ミハエルと同じくカートレース、フォーミュラ・フォードなどを経て、1994年にドイツF3初参戦、シリーズ3位に食い込み注目される。翌1995年もドイツF3に参戦し、ノルベルト・フォンタナとチャンピオン争いを繰り広げるが、惜しくもシリーズ2位でこの年のシーズンを終えた。同年11月のマカオGPでは総合優勝を果たし、マカオGP史上初となる兄弟で優勝の記録を達成する(ミハエルは1990年に優勝)。

1996年

全日本F3000への参戦歴を持つミハエルからの勧めもあり、舞台を日本に移してチーム・ルマンよりフォーミュラ・ニッポンに参戦、同時に全日本GT選手権(JGTC)にもチーム・ラーク・マクラーレン(後のチーム郷)のマクラーレンF1 GTRで参戦した(この年はJGTC、Fニッポン共にチームメイトは服部尚貴)。

Fニッポンでは3勝を挙げ初代チャンピオンを獲得し、JGTCでもシリーズ2位と活躍した。また、この年のみヘルメットをそれまでのベル製ではなく、日本でのメンテナンスの利便性を考え、アライ製を使用している(1997年からは再びベルを使用。ミハエルもF1デビュー当初はアライ製のヘルメットを使用していた)。

また、同年8月6日マクラーレンからF1テストドライブのオファーを受け、MP4/11シルバーストーン・サーキットでドライブ[2]、F1マシンを経験した[3]。これはマクラーレンのボスであるロン・デニスが翌1997年にテストドライバーとして採用しようと目論んでのテスト招聘だったが、F1実戦へのデビューを望んでいたラルフ側がテストドライバー就任に難色を示したため、マクラーレン加入は実現しなかった[4]

ジョーダン

1997年

ミハエルと同じくジョーダンからF1デビューを果たす。第3戦アルゼンチンGPで3位フィニッシュし、F1参戦からわずか3戦目で表彰台に上ったが、先行していたチームメイトのジャンカルロ・フィジケラと絡みリタイアに追いやってしまった。速さを見せつけたその一方で荒っぽいドライブも目立ち、17戦中10戦でリタイアを喫したが、13ポイントを挙げ、シリーズ11位でデビューシーズンを終えた。

1998年

速さを見せる一方で、荒さは相変わらずであったが濡れた路面に対しての高い対応力を見せた。第13戦ベルギーGPでは、スパ・フランコルシャン特有の雨により荒れたレース展開となる中2位でフィニッシュした。チームメイトのデイモン・ヒルがジョーダンチームにF1初優勝をもたらした記念すべきレースに、1-2フィニッシュという形で華を添えた。続く第14戦イタリアGPでも連続表彰台となる3位を獲得した。このレース後に、1999年からウィリアムズと2年契約を結んだことを発表した。最終的に14ポイントを挙げ、シリーズ10位でシーズンを終えた。

ウィリアムズ

ウィリアムズ時代(2004年)

1999年

名門ウィリアムズに移籍。チームメイトは、前年まで2年連続のCARTチャンピオンだったアレックス・ザナルディだった。この年のウィリアムズは強力とは言えないスーパーテックエンジン等、戦闘力に欠けており、ザナルディは0ポイントでシーズンを終えた一方、シューマッハは3度表彰台に上り、第13戦イタリアGPでは自身初となるファステストラップも記録した。雨が絡む展開となったヨーロッパGPでは一時はトップを走る奮闘を見せ、タイヤのパンクによる後退はあったものの4位入賞を果たした。結局この年のシューマッハは35ポイントを挙げ、シリーズ6位だった。

2000年

ウィリアムズはBMWエンジンを獲得。新人のジェンソン・バトンをチームメイトに迎えた。開幕戦オーストラリアGPで3位表彰台と上々の滑り出しをみせるが、結局未勝利に終わった。第3戦サンマリノGPでは燃料システムのトラブルに見舞われ、第6戦ヨーロッパGPではエディ・アーバインヨス・フェルスタッペンと接触しリタイアした。特に第7戦モナコGPではクラッシュにより脹脛に裂傷を負った。さらに第8戦カナダGPではジャック・ヴィルヌーブに衝突されるなど、マシントラブルとアクシデントにより7回のリタイアを喫した。24ポイントの獲得にとどまるも、前年より一つ上のシリーズ5位となった。

2001年

2001年カナダグランプリ

CART史上最年少チャンピオンであるファン・パブロ・モントーヤをチームメイトに迎える。第4戦サンマリノGPでは、予選3位からスタートして参戦5年目でF1初勝利を挙げた。母国ドイツGPでも勝利し、この年は最終的に3勝を挙げ49ポイントを獲得し、前年を上回るランキング4位でシーズンを終えた。

2002年

開幕からフェラーリが圧倒的な戦力を見せつけシーズンを席巻。ウィリアムズ勢は大苦戦の一年となった。序盤の第2戦マレーシアGPで同年チーム唯一となる勝利を挙げたが、50ポイントを獲得したチームメイトのモントーヤに獲得ポイントで上回られ、獲得したポイントは42ポイント、ランキング4位でシーズンを終えた。

2003年

2勝を挙げ、チームもコンストラクターズタイトルに手が届きそうであったが、僅差でフェラーリに敗れた。自身は自己最多の58ポイントを獲得したもののランキングでは5位に終わった。モントーヤは9度の表彰台で82ポイントと、チームメイトに対し大きく遅れをとった。このウィリアムズ在籍時代には、幾度かの優勝争いにこそ絡むも、チャンピオン争いをするには一歩足りない状況が続いた。またチームメイトのモントーヤを過剰に意識するあまり、レース中に同士討ちすることがあった。

2004年

同年のウィリアムズは、フェラーリだけでなくB・A・Rルノー勢に対しても苦戦を強いられた。第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し、2位フィニッシュしたが、マシンのブレーキダクトの規定違反により失格となった。シューマッハは第9戦アメリカGP決勝で、高速の最終コーナーでクラッシュし背骨を負傷、6戦欠場を余儀なくされ、結局未勝利に終わった。またシーズン中に、翌シーズンからのトヨタ移籍が発表され、6年間在籍したウィリアムズからの離脱が決まった。また、同年の日本GP・鈴鹿では兄ミハエルが優勝、自身は2位となり、結果的に最後となる兄弟での1-2フィニッシュを記録した。

トヨタ

トヨタ時代(2006年)

2005年

第2戦マレーシアGPで5位フィニッシュし、トヨタ移籍後の初入賞を果たした。第9戦アメリカGPでは、フリー走行2回目でミシュランタイヤの問題から前年と同じ最終コーナーでスピンを喫し、予選と決勝を欠場した。しかしこの年はコンスタントに入賞を記録し、ついにハンガリーGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得した。また日本GPでポールポジション中国GPで3位表彰台を獲得するなど終盤戦でも活躍した。計14戦で計45ポイントを獲得し、43ポイントを獲得したチームメイトのヤルノ・トゥルーリを上回った。

2006年

トヨタは前年までのミシュランタイヤからブリヂストンタイヤに変更し、序盤は対応に苦労した。第3戦オーストラリアGPではミハエルのクラッシュ、後続から迫っていたモントーヤのトラブルにも助けられ、チームにとっても自身にとってもシーズン唯一の3位表彰台を獲得した。中盤~終盤にかけて、マシンパフォーマンスは向上するが信頼性が伴わず、シーズン全体では18戦中7度のリタイアを喫した。この年は20ポイントを獲得しランキング10位となった。前年に続いてチームメイトのトゥルーリを年間獲得ポイントで上回った。

2007年

2007年イギリスグランプリ

マクラーレンとフェラーリが他チームを圧倒し、その後にBMWザウバーがつけるという構図がシーズンを通して一貫していた。その中でトヨタは、入賞枠をルノー、ウィリアムズ、レッドブルらと奪い合う年となった。チームメイトのトゥルーリは、予選では常にその集団から抜けだしQ3に進出する一方で、シューマッハはシーズンを通して予選で中団から後方に沈むことが多かった。ハンガリーGPではこの年最高の6位入賞を果たし復調の兆しを見せたが、結局入賞はこれを含めて3回のみに留まり、日本GP終了後の10月1日、2007年シーズン限りでのトヨタチーム離脱を発表した。「今が新しい挑戦を探すべきときだと思った」と言い残し、3年間在籍したトヨタを離れF1での現役続行を公言していたが、他のF1チームからの具体的なオファーは無く、この年をもってF1から事実上の引退となった。

同年12月6日ヘレスにて、スパイカーF1を買収したばかりのF1新規参戦チームであるフォース・インディアの2回目となるF1テスト走行に協力し[5]スパイカー・F8-VII」を走らせたが、シューマッハは「このテストドライブは友人であるビジェイ・マリヤに頼まれていたからであって、僕はフォース・インディアでレースをする気はない」としている[6]。また、2006年から契約をしていたマネージャーのハンス・マールとも袂を分かち、ミハエルからも引退を勧められたと言われている。2008年からのDTMへの参戦が有力視され報道された際にはDTMへの参戦歴のあるミハエルから「自分たち兄弟は、DTMマシンを速く乗ることは難しい」とアドバイスされたという。

DTMでの経歴

DTM時代(2008年)

2008年

メルセデスチームで“MercedesBenz AMG-Cクラス”を駆りDTMシリーズに参戦。母国ドイツを基盤とするレース活動はF3時代以来13年ぶりとなった。第7戦ニュルブルクリンクのレースで8位入賞し、初ポイントを獲得。第9戦のカタルーニャでも7位入賞し2ポイント獲得したもののDTM参戦初年は計3ポイント、シリーズ14位に留まり厳しいデビューイヤーとなった。

2009年

2009年DTM

苦戦した2008年で引退するのではないか、という噂も出ていたが、2009年はAMGメルセデスCクラスの最新型マシンでの継続参戦が決まり、シューマッハは「前年は1年落ちのマシンだったが、今年最新のメルセデスCクラスに変わることは非常に大きなチャンス。2008年が学習の年であることはチームにも明らかなことだった。だから昨年の成績には満足している。メルセデスが最新型マシンを与えてくれたことへの信用に応えたいと思っている。DTMシリーズが世界最高のツーリングカーシリーズであり、ドライバーは1メートルとコンマ1秒のために激しく戦っている。私がパドックで多くの観客と接することでも分かるように、ファンも私と同じようにこのDTMシリーズが好きだ。観客達はDTM以外のどんなレースでもこれ以上のバリュー・フォー・マネーは得ることはできないだろう」と話し、DTMとその環境に好感を抱いたとコメントしている。

2009年はわずか入賞三回、計9ポイントを獲得しシーズンを終えた。

2010年

2010年はHWAチームから参戦し、3ポイント獲得に終わったものの第5戦ノリスリンクではポールポジションを獲得。スタートでストールしてしまったが、ファステストラップを記録するなど随所で速さを見せた。

評価

F1デビュー当初から完走すれば入賞できる上位に位置することが多かったが、上位走行中のリタイアも多い。トヨタへの移籍後にはウィリアムズ所属期後半にしばしば見られたような、単純なミスは少なくなった。

F1で6回の優勝と、6回のPPを獲得しており、参戦当時のF1を代表するドライバーの一人であった。

記者マイク・ローレンスは、2005年インディアナポリスの金曜フリー走行でのクラッシュがなければ、もっと成功を収められただろうという趣旨の分析をしている[7]

エピソード

  • ヘルメットのカラーリングはジュニア時代から兄ミハエルと同じデザインのものを踏襲しており、兄との相違点としてネオンイエローをベースカラーとすることで独自性を出している。
  • モナコGPではF1デビューからリタイヤが続き、完走達成まで6年を要した。しかし、2002年に初完走を果たして以降は全て完走している。
  • アメリカGPでの完走は1回のみだった。2004年と2005年には大クラッシュも経験しており、相性が悪かった。
  • ミハエルとは不仲であると言われている。ドイツの新聞紙「ビルト」によると、口も利かないほどで、「兄さんと僕はすごく違う。趣味も違うし、別の人生を歩いている。兄弟と親友になる必要はない。」とも語っている[8]。誕生日ウィークのグランプリでは恒例としてバースデーパーティがパドック内で行われており、その際にはメディア向けにお互い所属チームが違っていても「兄弟」として出向いていた。
  • 他にも、F1デビュー年にチームメイトだったジャンカルロ・フィジケラ(前述のアルゼンチンGPでの同士討ちがきっかけ)や、ウィリアムズ時代のチームメイトだったファン・パブロ・モントーヤとも不仲とされる。
  • 当時未定であった1997年のチームメイトには誰がよいか?という質問に、デイモン・ヒルと即答していた(ヒルはワールドチャンピオンを獲得したにもかかわらずまだ97年のシートが確定していなかった)。そして翌年に彼とコンビを組んでおり、この時から非常な良好関係だったという。
  • 自身の後任には同郷のドライバーが起用されることが多かった。トヨタではティモ・グロックとなり、ウィリアムズではニック・ハイドフェルドジョーダンではハインツ=ハラルド・フレンツェンが起用された。
  • ウィリアムズF1チームが2019年に最下位を走り続ける絶不調期を過ごし、翌2020年にチームの身売り報道が多くなった際に取材を受け、「フランク・ウィリアムズのチームの管理方法は常に上から強いプレッシャーをかけるものだった」「現代風のやり方でチームを導くことができなかったようだ、時代は変化しているし数年前に若い経営者に道を譲るべきだった。」「あのチームのマネージメントスタイルには間違っていることがすごく多かった」と自身が現役時代に6年在籍したチームの内情を批判的に語った[9]。ただしチームの持つ施設や技術のレベルについては「今でも素晴らしいレーシングチームだと思う」と話している。

レース戦績

マカオグランプリ

チーム エンジン 周回 合計タイム LEG1 LEG2 総合順位
1994年 ドイツの旗 マイルドセブン・WTSレーシング オペル 27 1:06:19.330 4 5 4位
1995年 15 35:05.832 1 C 1位

ドイツ・フォーミュラ3選手権

チーム エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 DC ポイント
1994年 オペル・チームWTS オペル A ZOL
1
C
ZOL
2
3
HOC
1
3
HOC
2
9
NÜR
1
Ret
NÜR
2

8
WUN
1
2
WUN
2
Ret
NOR
1
Ret
NOR
2
10
DIE
1
2
DIE
2
2
NÜR
1

2
NÜR
2
3
AVU
1
2
AVU
1
14
ALE
1
1
ALE
2

2
HOC
1

DSQ
HOC
2

6
3位 158
1995年 A HOC
1

2
HOC
2

2
AVU
1
5
AVU
1
6
NOR
1

1
NOR
2

2
DIE
1
1
DIE
2

1
NÜR
1
2
NÜR
2

3
ALE
1
3
ALE
2
3
MAG
1
10
MAG
2
Ret
HOC
1

DSQ
HOC
1

DSQ
2位 171

全日本GT選手権

チーム コドライバー 使用車両 タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1996年 チーム ラーク・マクラーレンGTR 日本の旗 服部尚貴 マクラーレン・F1-GTR B GT500 SUZ
1
FSW
Ret
SEN
15
FSW
Ret
SUG
1
MIN
1
2位 60

フォーミュラ・ニッポン

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1996年 X-JAPAN Racing Team Le Mans SUZ
3
MIN
1
FSW
19
TOK
1
SUZ
4
SUG
Ret
FSW
Ret
MIN
1
SUZ
4
FSW
Ret
1位 40

FIA GT選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1997年 AMGメルセデス メルセデス・ベンツ・CLK-GTR GT1 HOC SIL HEL NÜR SPA
5
A1R SUZ DON MUG SEB LAG 29位 2

(key)

F1

チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 ランキング ポイント
1997年 ジョーダン 197 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
3
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
6
GBR
5
GER
5
HUN
5
BEL
Ret
ITA
Ret
AUT
5
LUX
Ret
JPN
9
EUR
Ret
11位 13
1998年 198 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
7
ESP
11
MON
Ret
CAN
Ret
FRA
16
GBR
6
AUT
5
GER
6
HUN
9
BEL
2
ITA
3
LUX
Ret
JPN
Ret
10位 14
1999年 ウィリアムズ FW21 AUS
3
BRA
4
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
5
CAN
4
FRA
4
GBR
3
AUT
Ret
GER
4
HUN
9
BEL
5
ITA
2
EUR
4
MAL
Ret
JPN
5
6位 35
2000年 FW22 AUS
3
BRA
5
SMR
Ret
GBR
4
ESP
4
EUR
Ret
MON
Ret
CAN
14
FRA
5
AUT
14
GER
7
HUN
5
BEL
3
ITA
3
USA
Ret
JPN
Ret
MAL
Ret
5位 24
2001年 FW23 AUS
Ret
MAL
5
BRA
Ret
SMR
1
ESP
Ret
AUT
Ret
MON
Ret
CAN
1
EUR
4
FRA
2
GBR
Ret
GER
1
HUN
4
BEL
7
ITA
3
USA
Ret
JPN
6
4位 49
2002年 FW24 AUS
Ret
MAL
1
BRA
2
SMR
3
ESP
11
AUT
4
MON
3
CAN
7
EUR
4
GBR
8
FRA
5
GER
3
HUN
3
BEL
5
ITA
Ret
USA
16
JPN
11
4位 42
2003年 FW25 AUS
8
MAL
4
BRA
7
SMR
4
ESP
5
AUT
6
MON
4
CAN
2
EUR
1
FRA
1
GBR
9
GER
Ret
HUN
4
ITA
PO
USA
Ret
JPN
12
5位 58
2004年 FW26 AUS
4
MAL
Ret
BHR
7
SMR
7
ESP
6
MON
10
EUR
Ret
CAN
DSQ
USA
Ret
FRA GBR GER HUN BEL ITA CHN
Ret
JPN
2
BRA
5
9位 24
2005年 トヨタ TF105 AUS
12
MAL
5
BHR
4
SMR
9
ESP
4
MON
6
EUR
Ret
CAN
6
USA
INJ
FRA
7
GBR
8
GER
6
HUN
3
TUR
12
ITA
6
BEL
7
BRA
8
6位 45
TF105B JPN
8
CHN
3
2006年 TF106 BHR
14
MAL
8
AUS
3
SMR
9
EUR
Ret
ESP
Ret
10位 20
TF106B MON
8
GBR
Ret
CAN
Ret
USA
Ret
FRA
4
GER
9
HUN
6
TUR
7
ITA
15
CHN
Ret
JPN
7
BRA
Ret
2007年 TF107 AUS
8
MAL
15
BHR
12
ESP
Ret
MON
16
CAN
8
USA
Ret
FRA
10
GBR
Ret
EUR
Ret
HUN
6
TUR
12
ITA
15
BEL
10
JPN
Ret
CHN
Ret
BRA
11
16位 5

ドイツツーリングカー選手権

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2008年 ミュッケ・モータースポーツ メルセデス・ベンツ・Cクラス 2007 HOC1
14
OSC
10
MUG
Ret
LAU
13
NOR
16
ZAN
12
NÜR
8
BRA
15
CAT
7
BUG
Ret
HOC2
14
14位 3
2009年 HWAチーム メルセデス・ベンツ・Cクラス 2009 HOC1
9
LAU
10
NOR
6
ZAN
10
OSC
11
NÜR
7
BRH
9
CAT
13
DIJ
5
HOC2
Ret
11位 9
2010年 HOC1
9
VAL
Ret
LAU
9
NOR
11
NÜR
6
ZAN
9
BRH
Ret
OSC
9
HOC2
Ret
ADR
12
SHA
10
14位 3
2011年 HOC1
3
ZAN
11
SPL
2
LAU
12
NOR
6
NÜR
Ret
BRH
5
OSC
Ret
VAL
13
HOC2
11
8位 21
2012年 メルセデス・ベンツ・Cクラスクーペ HOC1
7
LAU
10
BRH
19
SPL
11
NOR
Ret
NÜR
13
ZAN
10
OSC
13
VAL
14
HOC2
9
17位 10

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『F1速報特別編集 ミハエル・シューマッハ全記録 1984 - 2006』、イデア、2007年、p131
  2. ^ Ralf Schumacher Mercedes Photos, Silverstone (1996) Motorsports Images
  3. ^ A Schumacher in a McLarenマクラーレンF1公式Twitter 2015年8月27日
  4. ^ 『1996 F1総集編 AS+F』 三栄書房、1996年、53頁。
  5. ^ Force India Formula 1 team completes second winter test. Crash.net 2007年12月7日
  6. ^ autosport.com 2008年2月21日
  7. ^ “タイヤ by マイク・ローレンス”. F1通信. (2009年11月15日). http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51588053.html 2011年3月25日閲覧。 
  8. ^ F1-Live.com 2006年9月13日[リンク切れ]
  9. ^ ラルフ・シューマッハー「ウィリアムズ再建の鍵は設立者ファミリーが完全に身を引くこと」F1 TOPNEWS 2020年6月3日

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ラルフ・シューマッハに関連するカテゴリがあります。

外部リンク

  • Ralf Schumacher (@ralfschumacher_rsc) - Instagram
  • ラルフ・シューマッハ公式ウェブサイト
アイルランドの旗 ジョーダン・グランプリ イギリスの旗
創設者
主なチーム関係者
主なドライバー
F3000ドライバー
F1マシン
主なスポンサー
イギリスの旗 ウィリアムズ・レーシング
チーム首脳
  • イギリスの旗 ジェームス・ボウルズ (チーム代表)
  • 不明の旗 マシュー・サベージ (Williams Grand Prix Holdings会長 / ドリルトン・キャピタル会長)
  • イギリスの旗 ジェイムズ・マシューズ(英語版) (Williams Grand Prix Holdings取締役)
主なスタッフ/関係者
現在のドライバー
F1車両
現在のPUサプライヤー
現在のスポンサー
※役職等は2023年時点。
  • 過去のチーム関係者
元チーム関係者
創設者
チーム首脳
主なスタッフ
主なドライバー
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
※年代と順序はウィリアムズで初出走した時期に基づく。 ※ウィリアムズにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はウィリアムズにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はウィリアムズにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
  • F1以外の車両 ※関与のみの車両も含む。
F2
プロトタイプ
ラリー
ツーリングカー
  • 過去の関連組織
タイトルスポンサー
エンジンサプライヤー
  • 前身
  • Template:フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ を参照。
日本の旗 トヨタF1
主なチーム関係者
主なドライバー
テスト/リザーブドライバー:
車両
主なスポンサー
タイトルスポンサー:
スポンサー/サプライヤー:
エンジン供給
関連組織
関連項目
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
  • 20 マカオの旗 梁瀚昭
  • 21 マカオの旗 梁瀚昭
  • 22 マカオの旗 鄭頴聰
  • 23 イギリスの旗 ルーク・ブラウニング
全日本F2000選手権
1970年代
全日本F2選手権
1970年代
1980年代
全日本F3000選手権
1980年代
1990年代
フォーミュラ・ニッポン
1990年代
2000年代
2010年代
スーパーフォーミュラ
2010年代
2020年代
1996年のフォーミュラ・ニッポンを戦うチームと出走ドライバー
かもめサービス RACING TEAM with IMPUL TEAM ANABUKI 童夢 with 無限 TEAM 5ZIGEN ADVAN パルチェッカーズ TEAM avex 童夢 with 無限 SHIONOGI TEAM NOVA
1 日本の旗 鈴木利男 2 日本の旗 山本勝巳 5 イタリアの旗 マルコ・アピチェラ 7 日本の旗 影山正美 8 日本の旗 中野信治 9 スペインの旗 ペドロ・デ・ラ・ロサ
6 日本の旗 光貞秀俊 10 アルゼンチンの旗 ノルベルト・フォンタナ
スリムビューティハウス CERUMO ニホンリード ヤマダ パルチェッカーズ カルソニック RACING TEAM with IMPUL 神奈川クリニック STELLAR X-JAPAN Racing Team Le Mans
12 日本の旗 羽根幸浩 15 日本の旗 山田政夫
日本の旗 田中哲也(第6・9戦)
17 日本の旗 大西太一郎 19 日本の旗 星野一義 20 イギリスの旗 アンドリュー・ギルバート=スコット 24 日本の旗 服部尚貴
21 ドイツの旗 ミハエル・クルム 25 ドイツの旗 ラルフ・シューマッハ
NAVI CONNECTION RACING TEAM ART BRILLANT ガルウィング FUNAI SUPER AGURI PIAA NAKAJIMA RACING ASAHI KIKO SPORTS
27 日本の旗 影山正彦 30 日本の旗 田嶋栄一 55 日本の旗 金石勝智 64 日本の旗 高木虎之介 72 日本の旗 川本篤
28 日本の旗 近藤真彦
デンマークの旗 トム・クリステンセン(第8戦)
31 日本の旗 岡田秀樹 56 日本の旗 本山哲 65 日本の旗 黒澤琢弥 73 日本の旗 玉中哲二
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