木村禧八郎

木村禧八郎
きむら きはちろう
生年月日 1901年2月2日
出生地 日本の旗 日本 東京府
(現・東京都
没年月日 (1975-05-13) 1975年5月13日(74歳没)
出身校 慶應義塾大学経済学部卒業
前職 記者
現職 東京都参与
所属政党日本社会党→)
労働者農民党→)
日本社会党

選挙区全国区→)
東京都選挙区
当選回数 4回
在任期間 1947年5月3日 - 1956年6月3日
1959年6月2日 - 1971年7月1日

その他の職歴
日本社会党政策審議会長
1963年 - 1965年
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木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1975年5月13日)は、日本政治家経済評論家日本社会党参議院議員野党随一の財政政策通として知られて、特にインフレーション抑止政策を一貫して主張した。

生涯

東京呉服商の家に生まれた。少年時代から勉強好きで知られ、1924年慶應義塾大学経済学部を卒業する。同年時事新報に入社し、経済記者として活躍する。その後、毎日新聞、エコノミストを経て、戦後は北海道新聞に移り論説委員長を務める。記者時代からインフレーションに強い関心を持ち、1939年岩波書店から『インフレーション』を出す。

1947年第1回参議院議員通常選挙に社会党公認で全国区から立候補し当選する。以後当選回数4回。第1次吉田内閣石橋湛山大蔵大臣ケインズ経済政策を取り、インフレーションによる生産力拡大に対しては徹底して攻撃した。1948年片山内閣が提出した予算案に対して反対票を投じる。

社会党に不満を抱いた木村は、黒田寿男らと社会党を脱党、労働者農民党を結成し党政策委員長となる。1950年朝鮮戦争が勃発し、朝鮮特需による日本経済の拡大とインフレに懸念を抱き、同年12月7日参議院予算委員会池田勇人蔵相に対して質問し[1]、池田の発言から「貧乏人は麦を食え」という失言報道を引き出している。

1957年、日本社会党に復党する。以後も参議院社会党を代表して、政府与党に対する批判者として活躍し、池田勇人内閣では、所得倍増論を、佐藤栄作内閣では、国債発行を批判し、蔵相の福田赳夫と論戦を繰り広げ、田中角栄内閣では、日本列島改造論をインフレーションと公害促進政策だとそれぞれ批判した。

1971年第9回参議院議員通常選挙で落選したが、その後も木村経済研究所を創設した他、美濃部亮吉東京都知事に当選すると、東京都参与、東京都新財源構想研究会座長となり美濃部革新都政を支えた。

関連図書

著書

出演

ニュース映画日本ニュース 戦後編 第7号」(金融経済学者として)

脚注

  1. ^ “参議院会議録情報 第009回国会 予算委員会 第9号” (1950年12月7日). 2008年8月6日閲覧。
議会
先代
亀田得治
日本の旗 参議院決算委員長
1968年 - 1969年
次代
松本賢一
先代
大河原一次
日本の旗 参議院建設委員長
1962年 - 1963年
次代
北村暢
党職
先代
勝間田清一
日本社会党政策審議会長
第6代 : 1963年 - 1965年
次代
多賀谷真稔
日本の旗 参議院決算委員長
第1回
(定数8)
3年議員
偶数回
定数4
第2回
第4回
第6回
第8回
第10回
第12回
第14回
第16回
第18回
第20回
定数5
第22回
定数6
第24回
第26回
奇数回
定数4
第3回
第5回
第7回
第9回
第11回
第13回
第15回
第17回
第19回
定数5
第21回
第23回
定数6
第25回
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
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